2012年8月13日月曜日

聖クララの祝日にちなんで皆様へ


在世会全国評議会の深堀評議員から大変貴重なお話がありましたので、ブログ記事として掲載させていただきます。

①と②に分かれており、②には①のある部分の訂正が含まれております。記事の臨場感をそのまま残すために、編集措置は取らずそのまま掲載することといたしました。

深堀さん、ありがとうございました。

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『聖クララとキリシタンの伝統』①

私が所属する浦上教会には聖クララにつながる歴史がありますので少し紹介したいと思います。

日本26聖人の殉教1597年2月5日以降にも長崎には10の教会が建っています。
殉教から6年後の1603年に浦上と広域の信徒を司牧する教会「サンタ・クララ教会」が建ちました。

実際にはその前から礼拝堂として建っていて、ポルトガル人や日本の信徒の喜捨(きしゃ)で立派な聖堂に出来上がったようです。

この教会ではイエズス会のアルウァレス神父が主任として司牧しました。しかし迫害の時代とあって1614年には聖堂が閉鎖され、その後聖堂は破壊されました。

同時に浦上の信徒は潜伏しました。

しかしながら禁教が厳しくなった時代サンタ・クララ教会で雑務をしていた、現在の「如己堂(にょこどう)」が在る所に住んでいた孫右衛門は信仰の逼塞(ひっそく)を恐れて同志を集め、浦上キリシタンの潜伏組織をつくったのです。

それが「帳方(ちょうかた)」:浦上に1人いて、バスチャンごよみによって年間の祝日や教会行事の日を繰り出し、又、祈りや教義を伝承する。

「水方(にずかた)」各郷に1人いて、帳方から伝えられた祝日や祈り、教義を聞役に伝える。洗礼を授けるのは水方の役目。

「聞役(ききやく)」各字に1人いて、一戸一戸の信者を把握していて、水方から伝えられたことを各世帯に流す、です。この潜伏組織が250年後の信徒発見につながったのです。

浦上の潜伏信徒は8月11日の聖クララの祝日に盆踊りと称して跡地に集まり祭りを通して祈っていました。現在は「クララ祭」と言って、ここでミサを捧げています。今日も18時30分からミサがありました。私も与ってきました。

つまり、サンタ・クララ教会と聖クララの祝日は浦上信徒の「信仰の原点」だったと言えます。この跡地に信徒発見100周年の記念として聖クララの記念碑が建てられました。

在世会全国評議会 
評議員 深堀範人


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『聖クララとキリシタンの伝統』②

聖クララと浦上のつながりについて書いたもの、喜んで頂いて良かったと思います。

在世会に入るまでは聖人の名前は知っていましたけど気にしていませんでした。今年の記念日に、サンタ・クララ教会と聖クララはどうつながっているのかが気になり少し調べて見たものです。

私が調べた書物は「長崎のキリシタン」片岡谷弥吉著、「浦上四番崩れ」片岡弥吉著、「神の家族400年」浦上教会です。

先に書いたものの中に間違いがありました、「水方(にずかた)」は(みずかた)です。

また一つ追加したいところがあります。「しかしながら禁教が厳しくなった時代サンタ・クララ教会で雑務をしていた」を「しかしながら禁教が厳しくなった時代サンタ・クララ教会で雑務と宣教の手伝いをしていた」にして下さい。

参考までに

孫右衛門は最初の帳方で、代々子孫が帳方を務めています。最後は吉蔵で、三番崩れで捕らえられ牢で殉教しています。永井隆と結婚した森山緑さんは吉蔵の曾孫です、永井隆はこの家に下宿したことが切っ掛けで洗礼を受けました。

もう一つ、8月11日の盆祭りに関連して、「四番崩れ」の中に有りますが、潜伏時代の7代わたる信仰の自由の悲願は、いつのころからか、つぎのうたとなって口ずさまれたという。

  沖に見ゆるはパッパの舟よ
     丸にやの字の帆が見える

 「丸にやの字」はマリアである。サンタ・マリアに、かれらはこの悲願成就を念じつづけた。毎年お盆のころになると、サンタ・クララ教会の跡に集まって盆踊りをした。

サンタ・クララの祝日(バスチャソ暦、陰七月十九日)とサンタ・マリアの御上天の祝日(バスチャン暦、陰七月二十二日)とが、お盆とほぼ時を同じくしていた。キリシタンたちは盆踊りにカムフラージしながら、役人の目をごまかし、サンタ・クララとサンタ・マリアとに祈るのであった。

 サンタ・クララ教会は家野郷川上にあった。このうえない祈りの場所を持つ家野郷は、キリシタンたちのよろこびであった。

  家野はよかよか 昔から善かよ  (家野=よの)
     サンタ・カララの土地じゃもの(クララをカララと誂る)


在世会全国評議会 
評議員 深堀範人